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2011年日本史研究会大会にむけて

二〇一一年度日本史研究会大会に向けて

研究委員会

東日本大震災の中で、私たち歴史研究者は、記憶を未来に伝えていく歴史学の営みの重要性を再度認識させられることになった。

津波被災地では、亡くなった方々の記憶にまつわる写真や位牌、様々な遺品を、がれきの中から丁寧に集め、これを遺族に返却するという活動が広範に行われた。避難所で写真を一つ一つ水できれいに洗い、これを乾かし、遺族に渡すという自治体非常勤職員の地道な作業を、マスコミが報道するという状況も生まれた。遺族に直接につながる記憶だけでなく、地域の記憶をつなぐ取り組みも紹介された。津波で土砂をかぶった地蔵を住民が掘りだし、それを高台に安置する映像も日本全国に伝えられた。亡くなった人たちや地域にまつわる記憶、それを伝える品々は、被災者が生きていく中で大きな役割を担っているのである。

被災者の生活再建過程において、歴史は重要な意味を持つこととなった。被災者が生活再建を考える時、そこで基本となるのは昨日まで続けていた生活であり、歴史的な継続の上にある「現在」である。そこで未来とは、歴史に支えられた「現在」の上にイメージされることになる。それに対して、被災者の外から持ち込まれる「復興」プランは、かならずしもこの歴史性を踏まえたものではない。計画が巨大化し、それを前提とした技術論が先行するとき、それは被災者の歴史に支えられた「現在」に対して無関心となるか、意図的に被災地の歴史との断絶をはかろうとするものになる。阪神・淡路大震災では、被災者の生活再建と、自治体が提起した復興区画整理や再開発をめぐる都市計画との間に、大きな対立が生まれた。同じ事は、今回も繰り返されようとしている。「現在」を生きる人々を歴史的な存在としてとらえうるかどうかが、現代日本社会において私たちが未来を具体的にイメージする時に、鋭く問われているのである。「現在」が、歴史的存在としてあるということを、日本の歴史学は日本の市民社会においてどこまで通念化しえたのか。言い換えれば、私たちの歴史学が総体としてどれほど日本社会に寄与してきたのかが、被災地の生活再建を通して鋭く問われているのである。

さらに、過酷災害となった原発事故の一連の過程もまた、歴史的な問いを生み出した。軍需技術の転用として始まった原発開発は、実現のために「絶対安全」であるという言説を生みだした。その言説に規定されて、事故の可能性を専門研究者が自ら封印し、外に対しては「絶対安全」以外の意見を封殺し、事故そのものを想定した対処法を考えなかった。この動きは、戦争に絶対負けないという言説を生みだし、それに異を唱えるものを投獄し、捕虜規定や敗戦時の対応策を具体化できず、多くの死者を出してしまった戦前の国家体制を想起させるものである。繰り返されたかの如きこの現象を、歴史研究者はどう捉え、社会に対して説明するのか。そのために、かつての天皇制研究のように前近代にまで遡るのか。それとも、近現代史固有の課題として解いていくのか、あるいはそれとは異なる枠組みを定置するのか。この「現在」から投げかけられる問いについて、社会に対して答えていくことも、歴史研究者に求められているのである。

それでは、現代社会が求める重要な役割を歴史学が担い、新たな課題に応えていくためにどうすればいいのか。その問いかけに対して、日本史研究会は、歴史的な存在として生きる人間を捉えることをめざして、大会テーマを『「生きること」の歴史像』とした。

昨年、研究委員会は、大会テーマとして「転換期における権力の編成形態」を掲げ、権力と社会の関係史を深めることで、全体史を問うことを目指した。具体的には、この課題に迫るために、社会全体が大きく変動していったと考えられる時期を転換期として捉え、社会変動の中で権力の具体的な編成が、どのような形態をとっていくのかに焦点をあてて分析を進めた。この点をふまえながら、今年度は権力と社会を担う人間の歴史的なあり方に焦点をあてることを目指して、全体会シンポジウムでは、そのテーマを『歴史における「生存」の構造的把握』とし、人々の「生存」そのものに切り込む方法と具体的な歴史像を提示していくこととする。各部会の共同報告では、人々の能動性と深い関係を持つ宗教と権力の関係や、人々の存在を支える主体性のあり方を深め、『「生きること」の歴史像』を豊かにしていきたいと考えている。

次に、大会シンポジウムについて、具体的な趣旨を説明したい。シンポで構造的な把握を強調するのは、以下の理由による。歴史的な意味での「生存」とは、当然ながら人間が生物として生きているという状況を示すものではない。特定の歴史段階において、社会的に定置された人々が、そのように生きて当然と考え、それが社会的に通念化している生き方が、歴史的にはあるべき「生存」を示すことになる。

二一世紀に入って、福祉国家理念を激しく攻撃する新自由主義的な価値規範が拡大し、現代社会において多くの人々の生存が脅かされている中で、この歴史的な意味での「生存」のあり方を歴史学界は問うようになった。たとえば歴史学研究会は、二〇〇八年度の大会シンポジウムを「新自由主義の時代と現代歴史学の課題―その同時代史的検証―」として、大門正克氏が『序説「生存」の歴史学』を報告し、人々の行為として展開する労働と生活からなる「生存システム」を、個々の人々のあり方に具体的に分け入ることで明らかにしようとする方法論を提示した。様々な歴史段階における「生存」を具体的に捉えようとするとき、その対象に鋭く分け入ることは、極めて重要である。しかし、そこで明らかになった様々な「生存」は、個別に存在するのではなく、当該期の社会や国家との構造的な連関の下に存在するのであり、その歴史的特質の解明も強く求められることになる。

高岡裕之氏は、同大会報告批判の中で、「問題を社会レベルに限定し、国家をその上部ないし外部に設定することは、『福祉国家』の縮減を目指す新自由主義に与することにつながるものであろう。事実、イギリスにおける『福祉国家の社会史』も、『福祉国家』の社会的基盤を明らかにすることを通じて、『福祉国家』の複合的構造とその歴史的根拠を示す試みであった。やはり国家の問題は、『生存』のための人々の営みとの双方向的関連の中で、具体的に検討が加えられる必要がある」と述べている。このように、当該期の歴史段階における国家と社会の複合的な構造の中で、「生存」を捉えることが求められているのである。

日本史研究会は、一九八〇年代から新自由主義の展開を踏まえ、このような「生存」についての構造的な把握を試みてきた。一九八六年大会シンポジウムにおける池田敬正氏の「日本の救済制度と天皇制」は、この時期、展開しはじめていた新自由主義的な自助論を早くも問題とするとともに、同時にそこに国家責任を回避する互助論的な要素があることを指摘した。そのうえで池田氏は、それを近代的な自助と前近代的な互助が結合している日本型福祉社会論と捉え、その結合を可能とするものとして天皇制を位置づけようとした。近代と前近代との癒着的な結合という、講座派や丸山学派以来の日本社会の歴史的構造的な把握は、現在様々な批判にさらされているし、地域社会や家族の結合が急速に解体しつつある現代社会を十分に捉えうるか否かについては議論となるであろう。

しかしながら、「生存」を、眼前にある日本社会の歴史的現在と関連づけ、前近代社会を含め長い視野で構造的に捉えるという視座は、現在においても重要であると考える。そこで本シンポジウムでは、二〇世紀日本における「生存」を構造的にとらえる高岡裕之氏の報告を中心とし、それと関連して現代日本における新自由主義と福祉国家の関係について、社会哲学者の後藤道夫氏からコメントをいただく。また、歴史的な展開については、中世から近世社会に至る時期について、地震等自然災害が頻発する日本列島の日常の中で形成される「生存」のあり方を矢田俊文氏に、近世社会の成熟の中で、人々の「生存」についての価値意識が変容していく動向を岩城卓二氏に、それぞれサブ報告をお願いした。

なお、本大会二日目の共同研究報告は以下のとおりである。古代史部会、竹内亮「古代の造寺と社会」。中世史部会、大田壮一郎「室町殿と宗教」。近世史部会、小倉宗「江戸幕府上方軍事機構の構造と特質」。近現代史部会、松沢裕作「地租改正と制度的主体」、松村寛之「保田與重―日本近代における〈主体〉をめぐって―」。シンポジウム・共同研究報告の両方において、積極的な討論をお願いするものである。

(文責・奥村弘)

 

全体会シンポジウムテーマ 歴史における「生存」の構造的把握

「生存」をめぐる国家と社会二〇世紀日本を中心として

高岡裕之

報告者に与えられたテーマは、「歴史における「生存」の構造的把握」という難題である。これに対し報告者は、二〇〇八年度歴史学研究会大会において大門正克氏が提起した「「生存」の歴史学」という視座を、二〇世紀日本の「福祉国家」の構造的特質との関連で再吟味することで、責を果たしたいと考えている。

大門氏は「生存」という概念の含意として、①従来別々に扱われがちであった「労働」と「生活」という二つの概念を統合し、「人びとが生き長らえるための営為」を総体=「生存システム」として捉えること、②「「生存」のあり方は、市場(商品経済)、国家、社会の仕組みと人びとの行為(生存する)の関係のなかでつくられる」ものであり、「構造」と「主体」の双方をトータルに捉えることの必要性をとくに強調した(大門正克「序説・「生存」の歴史学」『歴史学研究』第八四六号、二〇〇八年一〇月)。また大門氏は、最近の論考において、こうした「生存」という範疇を、「近代社会」「現代社会」を構成する①資本主義システム、②民衆の生活世界、③国民国家という三つの次元のうち、とくに②と関連するものとし、生活世界から①や③を捉え返す心要性を提唱している(大門正克「高度成長の時代」大門ほか編『高度成長の時代1』大月書店、二〇一〇年)。このように大門の「「生存」の歴史学」は、事実上、「構造」よりも「主体」、「市場」や「国家」よりも「民衆」を重視するものとして提唱されている点に特色がある。
これに対し本報告では、大門氏の提起を踏まえつつ、二〇世紀日本における「生存システム」の構造的特質を問題とする。このことは日本における「福祉国家」をどのように考えるかという問題でもある。冷戦構造が解体した一九九〇年代以降、日本の社会科学においても現代日本国家を「福祉国家」と把握する議論が一般化する一方、日本を「福祉国家」と捉えることに否定的な見解も根強く存在する(例えば後藤道夫『ワーキングプア原論』花伝社、二〇一一年)。こうした「福祉国家」問題に関し報告者は、すでに総力戦体制との関連で一定の検討を行ったが(高岡『総力戦体制と「福祉国家」』岩波書店、二〇一一年)、本報告では検討の対象時期を前後に拡張した上で、①人口の推移にみられる近代日本の社会変動の特徴、②いわゆる「日本型福祉国家」の一方の柱をなす「日本型医療システム」の生成過程の二点に注目することにより、問題を二〇世紀を通じて進行した「生存システム」の変容として捉え直し、そこにおける国家と社会の関係の特質を考えてみたい。

このように本報告の主題は、二〇世紀日本における「生存システム」の構造的特質を問うことであるが、サブ報告との関連で、考えてみたいことは、近代日本における「生存システム」のあり方を、長期にわたる日本列島の社会の歴史、とりわけ近世におけるそれとの関係において、どのように考えるかという問題である。周知のように、戦後日本の近代史研究は、昭和の戦争と「ファシズム」の社会的基盤を「前近代的」ないし「半封建的」要素の残存に見出し、その克服を課題としていた。しかし二〇世紀末になると、こうした視点は反転し、近代史研究においては「近代」批判が基調となる一方、近世史研究においてはムラないし「伝統社会」に対する再評価が進み、さらに歴史学の周辺からは江戸時代の日本を一つの「文明」と捉える見方も提起されるに至っている。このように近世・近代に対する歴史的評価が反転するようになった現在において、「生存システム」という観点から二つの時代の関係を再検討することは、さまざまな意味で必要な作業であると考える。

サブ報告との関連で考えてみたい第二の問題は、「生存システム」そのものを規定する自然環境の問題である。阪神・淡路大震災以来、私たちの「生存」の場である日本列島が、地球上有数の自然災害多発地帯であることは広く認識されるようになっているが、東日本大震災、とりわけ津波による被害の大きさは衝撃的であり、日本列島の自然環境の厳しさを痛感させるものであった。では、こうした日本列島の地理的特性を、「日本史」認識に組み込むことは、いかにすれば可能なのであろうか。

右の二つの問題は、報告者の手に余る課題であるが、当日は報告・サブ報告全体を通じて、重層的な視点から「歴史における「生存」の構造的把握」の方法を考えてみたい。

 

共同研究報告〈第一会場〉古代史部会

古代の造寺と社会

竹内亮

七世紀後半の日本列島社会は、中央から地方まで「造寺ブーム」の渦中にあった。『扶桑略記』の記すところによれば、持統天皇六年(六九二)における「天下諸寺」の数は、五百四十五寺であったという。これを裏付けるように、当該時期に創建された寺院の遺跡が日本各地で発見されており、その数は六百を超える。この頃、列島社会ではまさに寺院の爆発的増加というべき現象が起こっていた。

この現象を説明する理由としてしばしば挙げられるのが、国家による寺院造営の奨励政策である。このような造寺奨励政策は、推古朝から始まって七世紀を通じて数次にわたって出されたことが確認でき、霊亀二年(七一六)のいわゆる「寺院併合令」までは、寺院の造営は一切抑制されておらず、積極的に奨励されている。中でも特に重視されているのが、大化元年(六四五)八月癸卯の詔である。この詔では「凡自天皇至于伴造所造之寺、不能営者、朕皆助作。」と、天皇が寺院造営を援助することが宣言されている。この詔を受けて、各地の寺院造営に対する造寺技術の援助や経済的支援が国家から行われた結果、先に見たような寺院の爆発的増加が起こった、とする見方が多い(例えば、三舟隆之『日本古代地方寺院の成立』等)。

だからといって、寺院の増加をこのような国家の主導する政策からのみ説明できるわけではないことは明らかである。確かに、各地の寺院から出土する山田寺式(百済大寺式)軒瓦や川原寺式軒瓦などの官大寺系軒瓦の存在は、これらの寺院に対して官大寺造営機構(造寺官)を通じた建築技術面での支援が行われたことをうかがわせる。しかし、全ての寺院が官大寺由来の技術のみによって建てられたわけではなく、各地方における独自の交流によって技術が発展した側面も見逃すことができない。また、造寺に対する国家の経済的支援についても、あまり過大評価することはできない。寺院への経済的支援とは、具体的には寺封や寺田の勅施入ということになるが、造寺を契機とする寺封・寺田の勅施入は、官大寺をはじめとする中央の主要寺院にほぼ限定されており、地方寺院への施入例はほとんど確認することができない。この時期の寺院の大多数は、中央や地方の貴族・豪族が檀越となって、彼らの私財を投じることによって建てられたものであり、むしろ「営ムコト能ハザル」場合にのみ、限定的に国家が支援を行った、と見るべきであろう。

では、七世紀後半の「造寺ブーム」は、なぜ起こったのだろうか。その理由を知るためには、国家の造寺支援政策という外的要因が限定的であったのならば、まず檀越が造寺を発願するに至る内的契機の解明が重要である。そのためには、檀越自身が語る造寺の理由に耳を傾け、檀越が造寺に込めた願いを明らかにしなくてはならない。加えて、檀越が造寺を可能とした手段の解明も重要である。檀越達はどのような方法で造寺に必要な技術・物資・労働力を確保し得たのか。それを明らかにするためには、考古資料も含めた造寺の実態を示す様々な要素に目を向ける必要があろう。

本報告は、以上のような関心に基づき、七世紀後半における造寺について、主に実態的側面から考察する。史料的制約のため、特定の寺院を事例的に取り上げて個別に分析することになろうが、できるだけ総体的な解明を心がけたいと思う。また当該期は、政治体制が激しく変動し、それに伴って日本列島社会が大きく変容を遂げた時代でもある。列島の景観を大きく変えたであろう寺院の爆発的増加現象も、そのような社会の変容と無縁ではあり得ないはずである。寺院の造営という行為が、当該期の社会におけるいかなる必然性によって為されたのか、そして社会にどのような影響を与えたのか、という点についても、考察を巡らせてみたい。

 

中世史部会

室町殿と宗教

大田壮一郎

黒田俊雄氏による権門体制論・顕密体制論の提起を経て、中世宗教史研究が大きく展開したことは贅言を要しないだろう。その影響は多方面に亘るが、当学会でも一九八〇年代から九〇年代にかけて、中世国家と仏教の関係をめぐる報告が盛んに設けられた。さらに近年では、顕密体制論に内在する問題も含め、より批判的な視座からの検討が進んでいる。例えば、東アジア世界との関係を重視する上川通夫氏・横内裕人氏(1)、神祇秩序を積極的に評価する井上寛司氏・上島享氏(2)、そして権門体制論とも関わって重要な鎌倉幕府の宗教政策をめぐる平雅行氏の研究(3)、などが代表的なものと言えよう。

周知のように、以上の研究成果は中世成立期ないし前期に集中している。一方、中世後期については、検討対象にすら挙がらない時期が長く続いた(4)。こうした中、原田正俊「中世後期の国家と仏教」は、公武権力の育成による禅宗の台頭と室町殿権力下の禅顕密併置体制を明らかにし、この分野に新たな地平を切り開いた(5)。また、直接、宗教の問題を扱ったものではないが、富田正弘「室町殿と天皇」も、室町殿の国家的祈祷権掌握による寺社権門の主従的編成を論じている(6)。こうした研究成果によって、中世後期においても依然として国家と宗教の問題が重要な論点であることが明らかとなり、個別研究は着実に積み重ねつつある。

しかし、国家的祈祷の理解ひとつを取っても富田説と原田説には大きな隔たりがある一方、両者共に顕密仏教を半ば自明なものとして国家的機能を担う存在に位置付けるなど、なお議論には混乱がみられる。その要因は、中世後期における顕密仏教の実態が未解明であるために、およそ中世成立期の状況が敷衍されてきた点に求められよう。依然として「権門体制・顕密体制の解体期」など評価先行の研究状況において、研究史を前に進めるためには、室町期の顕密仏教を同時代の実態に即して位置付ける作業が必要ではないだろうか。

そこで本報告では、公武政権の首班として登場する室町殿と顕密仏教の関係を軸に、禅宗を含めた中世後期宗教体制の提示を目標とする。その際、制度的な枠組みでは捕捉しにくい室町殿権力の性格や、公武政権という属性に規定される要素にも目配りをする必要がある。具体的には、以下のような問題が検討課題となるだろう。まず、南北朝内乱から公武統一政権に至る過程では、従来の公請法会の多くが退転し、他方、幕府による仏事法会や祈祷の開催が本格化する。こうした動きは、それ以前の状況とどのような点で違いがあり、何を意図したものなのか。そして、室町殿を核とする新たな権力形態の登場は、寺院社会内部にどのような変化をもたらしたのだろうか。また、室町殿権力は、多様な勢力との直接的・間接的な結びつきに特徴がある。当該期の寺社造営や祈願所認定などは、こうした関係性を回路として実施された事例が目立つ。公武関係に収斂しがちな宗教政策論を相対化する上で、室町殿に連なる諸勢力を視野に入れた議論を試みたい。

以上、いずれも準備段階での構想であり、当日の報告にどこまで反映できるか予見し難いが、ともかく今後の研究の呼び水になるような議論が出来れば望外である。

  • (1) 上川通夫『日本中世仏教形成史論』(校倉書房、二〇〇七年)、横内裕人『日本中世の仏教と東アジア』(塙書房、二〇〇八年)。
  • (2) 井上寛司『日本中世国家と諸国一宮制』(岩田書院、二〇〇九年)、上島享『日本中世社会の形成と王権』(名古屋大学出版会、二〇一〇年)。
  • (3) 平雅行「鎌倉における顕密仏教の展開」(伊藤唯真編『日本仏教の形成と展開』法藏館、二〇〇二年)他。
  • (4) 研究史上の問題点については、拙稿「室町幕府宗教政策論」(中世後期研究会編『室町・戦国期研究を読みなおす』思文閣出版、二〇〇七年)を参照。
  • (5) 原田正俊「中世後期の国家と仏教」(『日本史研究』四一五、一九九七年、後に『日本中世の禅宗と社会』吉川弘文館、一九九八年に収録)。
  • (6) 富田正弘「室町殿と天皇」(『日本史研究』三一九、一九八九年)。

 

〈第二会場〉近世史部会

江戸幕府上方軍事機構の構造と特質

小倉宗

江戸幕府の機構を解明することは、近世の政治や社会を理解するうえで重要なテーマであるが、それに関する実証的な研究は思いのほか少ない。また、幕府の機構のうち①地域支配に関する側面、すなわち支配機構については、裁判や農政・財政などの分野で成果が生み出されてきたが、それと対をなす②軍事機構については、初期・幕末期の一部を除き、具体的な分析がほとんど行われていない。しかしながら、軍事は、武家政権である幕府を構成する大きな要素であり、軍事機構のあり方や、それと支配機構との関係について検討することは不可欠の作業ということができる。

さらに、幕府の機構を論じる際には、関東とともに上方が拠点となっていた事実をふまえる必要がある。たとえば、上方の中心である京都と大坂には、江戸城とならぶ直轄城(番城)の二条城や大坂城が存在し、直轄軍の大番を筆頭に多くの番衆が勤務していた。また、京都の所司代と大坂城代は、幕府において常置の最高職である老中に次ぐ地位にあり、両者をはじめとする上方の役人は、江戸以外に所在する遠国役人のなかでも人数や格式、職務の内容などが最も充実していた。このように、上方は幕府において重要な位置を占めており、その支配・軍事機構に考察を加えることは、ひろく幕府の機構一般や全国支配を理解することにもつながる。

ただし、上方の幕府機構については、地域支配の側面で研究が進展する(1)一方、幕府機構論全般の動向と同じく、軍事に未解明の部分が多い。それゆえ、上方における幕府の機構を総合的に把握するためには、軍事の側面を明らかにすることが最優先の課題となる。そこで、現段階において、幕府の上方軍事機構に関する主な研究をみると、1大坂城における幕府の役人や番衆を対象としたもの、2大坂周辺の譜代大名を対象としたもの、の二つをあげることができる。

まず、1では、大坂城に勤務する幕府の役人・番衆の組織や職務が概観される。そのうえで、寛永一四年(一六三七)の島原の乱を機に、翌年、将軍の命令なく他領へ出兵することを禁じた武家諸法度第四条の解釈が改められ、これを受けて、西国に対する将軍の軍事指揮権の一部が大坂の城代・定番・町奉行に与えられたことが指摘されている(2)。将軍の軍事指揮権が分与される点は、幕府の軍事機構において例外的なものであり、注目に値する。しかしながら、従来は、島原の乱から一七年を経た承応三年(一六五四)の文書をもとに推測されるにすぎず、また、軍事指揮権をめぐる役人や番衆の相互関係、その時期的な展開などは依然不明確である。さらに、上方における京都の軍事機構の位置、および、京都の支配・軍事機構と大坂のそれとの関係については、これまで十分な検討がなされてこなかった。

つぎに、2では、天保八年(一八三七)の大塩の乱などを事例として、近世中後期の尼崎藩や岸和田藩を中心に、大坂周辺における譜代大名の軍事的な役割が論じられてきた(3)。しかしながら、近世前期以来の上方における幕府の軍事機構と譜代大名との関係や、軍事の具体的な内容については、いまだ考察すべきところが多く残されている。

以上より、本報告では、軍事指揮権の問題や支配機構との関係に注目しつつ、京都と大坂の両方を含めた上方全体を対象に、近世前期から中期にいたる幕府の軍事機構について検討し、その構造と特質を明らかにする。また、上方の事例を通して、軍事をめぐる幕府と大名の関係や、幕府権力の性格を把握することを目指したい。

  • (1) 幕府の上方支配機構に関する主な研究については、拙稿「近世中後期の上方における幕府の支配機構」『史学雑誌』一一七~一一、二〇〇八。
  • (2) 朝尾直弘「畿内における幕藩制支配」『朝尾直弘著作集 第一巻 近世封建社会の基礎構造』岩波書店、二〇〇三(初出『近世封建社会の基礎構造畿内における幕藩体制』御茶の水書房、一九六七)。内田九州男「徳川時代の大坂城将軍の城」渡辺武ほか『大阪城ガイド』保育社、一九八三。藤井讓治「幕府領と大名領」大阪府史編集専門委員会編『大阪府史 第五巻』大阪府、一九八五。
  • (3) 岩城卓二「幕府畿内・近国支配における譜代大名の役割摂津国尼崎藩と和泉国岸和田藩を中心に」『近世畿内・近国支配の構造』柏書房、二〇〇六(初出『歴史研究』三五、一九九八)。

 

〈第三会場〉近現代史部会

地租改正と制度的主体

松沢裕作

本報告において主題として取り上げるのは、地租改正事業を遂行する制度的な主体のあり方である。

戦後歴史学において、日本近代社会の形成の「主体」のありようは、階級的主体の問題として論じられてきた。すなわち、維新変革の性格規定とかかわり、その担い手のブルジョア性の如何が主として問題にされてきたのである。これに対し、一九七〇年代の民衆運動史研究を媒介としながら、一九九〇年代に展開されたいわゆる「国民国家論」は、こうした階級的主体論にかわり、イデオロギー的な主体論を対置した。そこでは、国民国家の形成によって、諸個人が国民主体へとイデオロギー的に鋳造される過程が問題とされた。

こうした研究の展開を受けて、報告者は「制度的主体論」とも呼ぶべき立場から研究を進めてきた。ここで制度とは、諸個人が取り結ぶ関係が一定の範囲内で固定化・安定化せしめられたものの謂いであるが、そうした視座のもとでは、主体とは、制度の内部において諸個人が占める位置を意味する。しかし、ある制度の体系が、別の制度体系へと変化する時期、すなわち移行期には、旧い制度内の矛盾が旧い制度的主体によってはもはや処理しきれず、しかしいまだ新しい制度と制度的主体は形成されていないという状況の下で、制度の変革への志向が諸個人に胚胎する。こうした、旧制度と新制度の間に剰余として発生する志向性こそが「変革主体性」といわれるものに他ならない。

日本近代社会の形成において、村請制に規定された近世的土地所有秩序を解体した地租改正が、制度的変革の枢要な位置を占めることは論を俟たない。近代的な私的所有という制度的領域を生み出したものが地租改正であったとするならば、その過程には、所与のものである旧来の制度的主体とその内に生まれた変革主体性、それがもたらす新たな制度形成をめぐる試行錯誤が存在したはずである。

そこで報告者が注目したいのは、地租改正事業は、近世の村役人や組合村惣代の系譜を引く区戸長といった役職が専らその遂行を担当したのではなく、改租事業に関連した各種の職務が、県庁によって、あるいは村々からの自主的な動きとして、設定されるということである。本報告でとりあげる熊谷県・埼玉県下の村々では、地押丈量や地位等級調査にあたって、地租改正総代人、地主惣代人、地租改正顧問人、地租改正大総代といった多様な役職が改租事業遂行のために設定されていることが看取される。こうした改租事業遂行のための役職が設定されることは全国的に見られる現象であるが、従来の厖大な地租改正研究においては、その存在は指摘されながらも、その意味は十分に論じられてこなかった。

しかし、右に述べたような報告者の制度と主体をめぐる視角から見れば、このような、制度的な諸主体の「乱立」とさえ呼びうるような状況は、従来の、区戸長を中心とする制度的な秩序の枠内では、村請制の解体、換言すれば近代的土地所有の形成という変革の担い手を生み出すことが困難であり、そうした問題を乗り越えるべく多様な役職が設定されていったことを予想させるものである。

本報告では、こうした制度的主体の設定の論理を、壬申地券発行の段階、地押丈量の段階、地位等級調査の段階のそれぞれについてたどりながら、近代的な土地所有という制度的領域が生成する過程の特質を解明することをめざしたい。

【参考文献】

  • 奥村 弘「三新法体制の歴史的位置」(『日本史研究』二九〇号、一九八六年)
  • 佐々木寛司『日本資本主義と明治維新』(文献出版、一九八八年)
  • 松沢裕作『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、二〇〇九年)
  • 松沢裕作「近世・近代移行期村落史研究の諸課題」(『歴史評論』七三一、二〇一一年)

 

保田與重郎―日本近代における〈主体〉をめぐって―

松村寛之

いうまでもなく、現在の日本近代史研究において〈主体〉が自明のものとして論じられることはない。国民国家論以来、〈主体〉とはいわば「アイデンティティ」、すなわち「あくまで自分の外部に存在するさまざまな社会的要因との同一化を経たうえに獲得されていく自立的自己としての「自己同一性(1)」を意味しているからだ。たとえば、「日本」へと自己同一化する〈主体〉とは、酒井直樹の言うように、まず参照軸としての「西洋」を形象化し、それを「他者」として模倣することで定立されてきた。そして、「近代的であるとは、このような理念化された西洋の普遍性を受容すること」であり(2)、いわゆる「アジア主義」でさえ、それがヨーロッパ中心主義の裏返しである以上、この関係性から逃れうるものではなかった(3)。

確かに、西洋輸入による「脱亜」と国際社会における地位向上が達成された日露戦後の知識人の間ですら、はたして「世界の日本」たり得ているかとの疑問が生まれ、あらためて普遍としての西洋に目が向けられた(4)。また、第一次大戦後のモダン・ライフへの熱狂を経て、一九三〇年代には日本社会の不均衡な発展が注目され、講座派などに代表される前近代的・封建的な日本という認識が広まった(5)。これらは、文明開化的な近代主義を批判し、真の近代として形象化された西洋を日本に求めようとすることで、日本を〈主体〉の同一性として確保しようとする欲求の表れと言えよう。

しかし、一九三〇年代中頃になると、このような〈主体〉化の構図は危機を迎える。周知のように、この時期、第一次大戦後のヨーロッパを席巻した反近代思想が「不安の思想」などとして日本の知識層に紹介され、模倣の対象であった西洋近代そのものへの疑念が彼らの意識にのぼり始めるのである。かくして、デカダンスとしての西洋近代とは切り離された本来的な日本が、たとえば昭和研究会の「新日本の思想原理」(一九三九)や「近代の超克」座談会(一九四二)などにおいて求められていくことになる。だが、しばしば指摘されるように、彼らの思考は常に西洋近代の知性に依存したものであった(6)。これは、彼らが、それまでの〈主体〉化の構図が陥っていた矛盾から眼をそらしていたことを意味する。その矛盾とは、否定すべき西洋近代を、にもかかわらず模倣しなければならないということである。

本報告は、戦中期の保田與重郎(一九一〇~八一)に、この矛盾を正面から受け止めた個の〈主体〉のありようを見るものである。彼の思考方法は「イロニー」として知られる。しかし、橋川文三による示唆以外には、それが前近代的とされた日本で「もっとも尖鋭な近代につうじ、さらにその頽廃の必要を了承するという精神態度」であったこと(7)は、ほとんど論じられなかった。本報告では、このような保田の「イロニー」、すなわち「日本」へと〈主体〉化することをめぐる葛藤の跡を追うとともに、それが彼の、アジア・太平洋戦争期における玉砕・特攻といった死への憧憬と呼応していく意味を考える。

  • (1) 小林敏明『〈主体〉のゆくえ〓日本近代思想史への一視角』(講談社、二〇一〇年)、二二九~二三〇頁。
    (2) 酒井直樹『日本思想という問題』(岩波書店、一九九七年)、Ⅱ章。
    (3) 植村邦彦『「近代」を支える思想―市民社会・世界史・ナショナリズム―』(ナカニシヤ出版、二〇〇一年)、一二三~五頁。
    (4) 松本三之介『明治思想史〓近代国家の創設から個の覚醒まで』(新曜社、一九九六年)、二二六~二三二頁。
    (5) 有馬学『日本の歴史23 帝国の昭和』(講談社、二〇〇二年)、一六三~八頁。
    (6) 菅原潤「「近代の超克」と「東洋人の時代」―生田長江の「超近代」―」(田村栄子編『ヨーロッパ文化と〈日本〉―モデルネの国際文化学―』、昭和堂、二〇〇六年)、一六八~七〇頁。
    (7) 橋川文三『日本浪曼派批判序説』(未来社、一九六〇年)、三八頁。